織田長頼

曖昧さ回避 この項目では、江戸時代前期の大名について説明しています。織田信長の家臣については「菅屋長頼」をご覧ください。
 
凡例
織田長頼
時代 江戸時代前期
生誕 元和6年(1620年
死没 元禄2年4月3日(1689年5月21日
改名 信尚(初名)→長頼
別名 通称:右近
墓所 松山徳源寺→近江国安土城跡改葬
官位 従四位下侍従伊豆守山城守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
大和宇陀松山藩
氏族 織田氏(信雄系高長流)
父母 父:織田高長、母:富田氏
兄弟 津田勝広、長頼、長政、信久
津田頼房杉原重長継室、
織田政時正室、織田一之室、
土方氏陣室、平野長政正室など
正室:金森重頼
津川氏娘
信武、長八、長清、鍋千代、長晴、
妙眼院、松平正久正室、土方豊高正室、五辻英仲室、皆川重幸室、秋月種封正室
テンプレートを表示

織田 長頼(おだ ながより)は、江戸時代前期の大名大和国宇陀松山藩3代藩主。通称は右近。官位従四位下侍従伊豆守山城守。高長系織田家2代。

生涯

元和6年(1620年)、織田高長の次男として加賀国にて誕生した。この頃の高長は前田家の臣であり、独立した大名ではない。

寛永7年(1630年)、高長の父・信雄が死去した。信雄の事実上の隠居料であった宇陀松山3万1200石を高長が相続したことにより、長頼は大名家の嫡子となる。

慶安元年(1648年)12月晦日、従四位下に叙任する。後に侍従に任官する。万治2年(1659年)12月23日、高長の隠居によって家督を相続する。翌年9月3日、弟長政に3000石を分け与える。これにより、宇陀松山藩の石高は2万8235石余となる。なお、長政は幕府交代寄合に加えられる。長政の子の信明は、高家旗本になる。

徳川実紀』には、3代将軍・徳川家光の名家優遇の逸話として、無官であった長頼を信長の子孫にあたることから正月に単独で拝賀させたことを記している。また、寛文5年(1665年)4月17日、弟・信久と共に江戸城紅葉山における八講会の予参を務めている。こうしたことも国主に準じた待遇であったことを示している。

織田長頼の墓(近江八幡市安土城跡)

寛文11年(1671年)、領内の春日村に新たな陣屋を建築した。「松山新陣屋」と称された。貞享5年(1688年)9月12日、松山城下に一族の織田長清秀親らを招き、能を催した。元禄2年(1689年)2月22日、5代将軍・徳川綱吉に招かれて登城し、能を見物、自身も舞った。同年4月3日に江戸で死去、享年70。松山の徳源寺に葬られた。後に近江国安土城跡に改葬される。

系譜

織田木瓜紋信雄系高長流織田家2代当主(1659年 - 1689年)
織田氏 (平姓)

尾張国守護代家

伊勢守家
大和守家
因幡守家
  • 広長
  • 広貞
  • 広延
  • 達広
  • 広信
藤左衛門家
弾正忠家

弾正忠家の分家・支流

信長流
信長
信忠流
信忠 - 秀信 - 絶家
信雄流
信雄
信良流
高長流
高長
長政
高家
高家分家
  • 信清
  • 信安
  • 信序
  • 信虎
  • 房之助
勝長流
勝長
津田家
  • 勝良
  • 長政
  • 喬長
  • 信要
  • 信節
  • 伝八郎
  • 主税
  • 信勝
  • 則長
信高流
信貞流
信貞 - 貞置
高家
貞則流
貞輝流
信勝流
信勝 - 信澄
昌澄流
昌澄 - 信高
  • 信英
  • 信栄
  • 信温
  • 長義
  • 信活
信包流
信包
信当流
信治流
信治
柘植家
長益流
長益
長孝流
長政流
尚長流
信雄流織田家宇陀松山藩3代藩主 (1659年 - 1689年)
福島家
  • 福島高晴1600-1615
  • 豊臣家への内通が疑われ、改易
信雄流織田家