島津忠親
「島津忠隣」とは別人です。 |
戦前の今和泉島津家当主で華族(男爵)の島津忠親とは異なります。 |
凡例 島津 忠親 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正9年(1512年) |
死没 | 元亀2年6月12日(1571年7月4日) |
改名 | 北郷忠親→島津忠親→泰心斎(法号) |
別名 | 次郎左衛門(通称)、尾張守、豊後守 |
戒名 | 天香寺殿齢岡永寿居士 |
墓所 | 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地 |
氏族 | 北郷氏→島津豊州家 |
父母 | 父:北郷忠相、母:島津忠廉の娘 養父:島津忠広 |
兄弟 | 忠親、女(伊東祐充室)、忠孝、女、久厦 |
妻 | 正室:禰寝尊重の娘 |
子 | 北郷時久、久通、島津朝久 |
テンプレートを表示 |
島津 忠親(しまづ ただちか)は、戦国時代の日向、薩摩の武将。北郷氏9代当主、豊州家5代当主。
生涯
永正9年(1512年)、日向都城の領主・北郷忠相の長男として誕生。
天文15年(1546年)、豊州家島津忠広の養子・島津賀久が夭逝したことから、忠親は北郷氏を長男・北郷時久に継がせ、自らは養子として豊州家に入った。同18年(1549年)、養父の隠居により家督を継ぐ。
豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け渡すが、数ヵ月後には夜襲をかけ城を奪還した。しかし永禄11年(1568年)、義祐は2万の大軍をもって再び侵攻し、途中島津宗家の援軍を撃退しつつ飫肥城を包囲した。島津宗家は飫肥を放棄することを決定し、兵糧攻めにあっていた忠親は城を脱出、飫肥城は陥落した。
飫肥城落城後、庄内(都城)に移り、元亀2年(1571年)に同地で病死した。享年68。
参考文献
| |
---|---|
宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
分家・支流 | |
越前家 | |
播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
相州家→ 垂水家 | |
豊州家 | |
玉里家 | |
加治木家 | |
佐土原家 | |
重富家 | |
和泉家→ 今和泉家 | |
宮之城家 | |
永吉家 | |
日置家 | |
北郷氏→ 都城家 | |
佐多氏→ 知覧家 |