沃沮

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沃沮(よくそ、オクチョ、韓国語: 옥저, ラテン文字転写: Okjeo)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。

概要

2世紀頃の東夷諸国と東沃沮,北沃沮の位置。

『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に挹婁・夫余と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。

「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道咸興市付近)にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた夫余・東濊や高句麗とは同系とされている。1958年平壌直轄市楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、1961年に出土した「夫租長印」銀印、『漢書』巻28地理志「夫租」などから、本来は「夫租」であったと考えられている[1]。しかし、『三国志』以降は沃沮と表記されるが、これは夫租を誤記したためと考えられている。

東沃沮

『三国志』東沃沮伝によれば、始め衛氏朝鮮に帰属していたが、の武帝により漢四郡楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡)が置かれた際に、沃沮城(夫租城)を玄菟郡の県にした。以来、沃沮(夫租)は玄菟郡の支配下に入り、後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が楽浪郡に転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡に帰属することとなった。後、3世紀の頃には高句麗に臣従していた。魏の毌丘倹が高句麗に攻め入った際には、高句麗王の憂位居北沃沮に逃れたという。この記事に続けて北沃沮・南沃沮と言う表現が見られるが、南沃沮とは東沃沮を指すと考えられている。

後に「白山靺鞨」となり、渤海国が建国されてからは渤海人の一部となった。

東沃沮は、東以外にも別の沃沮が存在するという意味ではなく、東方民族の沃沮程度の意味だという[1]

北沃沮

前述の通り、北沃沮は『三国志』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で置溝婁ともいう。南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、北を挹婁と西を夫余と南を高句麗と接していた。

  • 「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、通説では「置溝婁」は誤写で、「買溝婁」が正しいとされる。

怪異

『三国志』東夷伝・東沃沮の条に以下の記述がある。

玄菟太守の王頎毌丘倹の命令で高句麗王を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます」と答えた。また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました」などとも答えた。

言語

扶余語族」も参照

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[2]沃沮ワイ人もほぼ同じとされる[3]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[4]と記される。

脚注

  1. ^ a b 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、134頁。ISBN 978-4000108294。 
  2. ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『後漢書』東夷列伝・高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  3. ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異」、濊「言語法俗大抵与句麗同,衣服有異」、『後漢書』東夷列伝・東沃沮「言語,食飲,居處,衣服有似句驪」、濊「耆旧自謂与句驪同種,言語法俗大抵相類」
  4. ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝・挹婁「人形似夫餘,而言語各異」

参考文献

関連項目

外部リンク

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
三国志 魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
後漢書 巻85 東夷列伝
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