大島義保

大島 義保(おおしま よしやす、寛永18年(1641年) - 延宝元年6月28日(1673年8月10日))は江戸時代寄合旗本。通称は左兵衛。川辺大島氏2代大島義唯の子。母は朽木宣綱の娘。兄に義近[1]。妻は天方倶通の娘、子に大島義浮

概略

慶安3年(1650年)12月、父義唯の遺領のうち美濃国加茂郡加治田村 590石を分知され、旗本寄合席の加治田大島氏の祖となった[2]

加治田大島氏は幕末まで旗本として続いた。

美濃国要所の旗本

  • 加治田の歴史は古く、古代から平安時代、戦国時代と主要位置にあり、街道もつづいている。歴史文化や加治田の宿場町加治田衆)が栄えていた。この重要な場所を大名に統治させるのではなく、旗本でも寄合席の家格徳川幕府の直轄地として要地・要所として加治田大島氏は重要であった。

逸話

  • 白華山清水寺の本堂改築にあたり協力している。
  • 子孫は明治まで旗本として続き、現在に至る[3]

関連項目

脚注

  1. ^ 『大島氏系図』
  2. ^ 『富加町史』「2 加治田大島氏」
  3. ^ 「加治田大島氏系図」

参考文献

外部リンク

  • 江戸時代の文芸資料
  • 古文書 書簡
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