一柳頼邦
凡例 一柳頼邦 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄8年12月8日(1696年1月12日) |
死没 | 延享元年7月8日(1744年8月15日) |
改名 | 治達(はるたつ)[1][2]→頼邦 |
別名 | 新蔵、内蔵助[1][2] |
戒名 | 甘節軒円巌祖融[1] |
墓所 | 愛媛県西条市の仏心寺[1] |
官位 | 従五位下兵部少輔[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 一柳治良、門川氏 一柳頼徳 |
兄弟 | 頼邦、直僖[注釈 1] |
妻 | 玉林院 |
子 | 頼寿、邦常、直義、杉浦正知正室、 喜多川久喬室ら |
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一柳 頼邦(ひとつやなぎ よりくに)は、江戸時代中期の大名。伊予国小松藩4代藩主。
生涯
元禄8年(1695年)12月8日、小松藩藩主一族である一柳治良(第2代藩主一柳直治の次男)の長男として、小松で生まれる[2]。
直治から家督を譲られて第3代藩主となったのは伯父の頼徳(直治の長男)であった。男子のなかった頼徳ははじめ自身の弟である直堅(直治の三男)を養嗣子としていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)に早世している。正徳4年(1714年)9月、頼邦は伯父である頼徳の養嗣子となり[2]、同年10月には将軍徳川家継への初謁を果たしている[2]。享保9年(1724年)、頼徳の死去により跡を継ぎ[2]、同年12月従五位下兵部少輔に叙任した[2]。
頼邦の治世において、小松藩は享保の大飢饉による甚大な被害を受けた。享保17年(1732年)には「飢人」が住民の4割を超え[3]、藩はその救済に追われた。この飢饉では、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対し、小松藩領内での餓死者は皆無であった[3]。小松藩の「会所日記」を解説した増川宏一は、小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものと評している[3]。
延享元年(1744年)7月8日、江戸で死去。享年50。跡を三男・頼寿が継いだ。
系譜
- 父:一柳治良
- 母:門川氏
- 養父:一柳頼徳(1666-1724)
- 室:玉林院
- 三男:一柳頼寿(1733-1785)
- 生母不明の子女
- 四男:一柳邦常
- 五男:一柳直義
- 女子:杉浦正知正室
- 女子:喜多川久喬室
脚注
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注釈
出典
- ^ a b c d e 一柳貞吉 1933, p. 51.
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.161、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.161。
- ^ a b c 増川・北村(2001年)、pp.156-157
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192151。
- 増川宏一著、北村六合光原典解読『伊予小松藩会所日記』 集英社新書 2001年 ISBN 4087201007
外部リンク
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『一柳頼邦』 - コトバンク