ジョン・ヒューム
ジョン・ヒューム John Hume | |
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生年月日 | (1937-01-18) 1937年1月18日 |
出生地 | 北アイルランド、デリー |
没年月日 | (2020-08-03) 2020年8月3日(83歳没) |
死没地 | 北アイルランド、デリー |
出身校 | アイルランド国立大学 |
所属政党 | 社会民主労働党 |
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ジョン・ヒューム(John Hume、1937年1月18日 - 2020年8月3日[1])は、北アイルランドの政治家。1979年から2001年まで社会民主労働党(SDLP)の党首であった。欧州議会の議員、またイギリス議会と北アイルランド議会の議員でもあった。ヒュームは北アイルランドの政治史の中でもとりわけ重要な役割を果たしたと見られている。北アイルランドの平和プロセスの立役者の一人として1998年度のノーベル平和賞の受賞者の一人である。
経歴
ヒュームはロンドンデリー(デリー)で生まれ、同地のセントコロンバ・カレッジで学び、そこで同級生だった詩人シェイマス・ヒーニーと知り合う。その後、メイヌースにある有名なカトリック神学校でアイルランド国立大学の一カレッジであるセントパトリック・カレッジで教育を受けた。そこで彼は司祭になるための勉強を進めたが、その後中退し、故郷で教師となった。
ヒュームはデリーのクレジットユニオン運動の発起者の一人であり、1960年代後半のデリーでの市民権運動で指導者として頭角を現した。市民権運動が最高の盛り上がりを見せた1969年には北アイルランド議会の無所属議員となり、1983年にはイギリス議会で議員となった。また1979年にはジェリー・フィットの後継者として、社会民主労働党の第2代党首となった。ほかに北アイルランドからの欧州議会議員の3人のうちの一人でもあった。ヒュームは北アイルランドの昨今の政治的進展、1985年の英愛合意や1998年のベルファスト合意などに、多大な貢献をした一人と目されている。
ヒュームは1998年、アルスター統一党のデヴィッド・トリンブル党首と共にノーベル平和賞を受賞している。2004年2月4日にヒュームは政界からの完全な引退を表明した。
2020年8月3日、ロンドンデリーの老人施設で死去した[2][3]。83歳没。
出典
ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年) | |
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ベティ・ウィリアムズ / マイレッド・コリガン・マグワイア (1976) - アムネスティ・インターナショナル (1977) - メナヘム・ベギン / アンワル・アッ=サーダート (1978) - マザー・テレサ (1979) - アドルフォ・ペレス・エスキベル (1980) - 国際連合難民高等弁務官事務所 (1981) - アルバ・ライマル・ミュルダール / アルフォンソ・ガルシア・ロブレス (1982) - レフ・ヴァウェンサ (1983) - デズモンド・ムピロ・ツツ (1984) - 核戦争防止国際医師会議 (1985) - エリ・ヴィーゼル (1986) - オスカル・アリアス・サンチェス (1987) - 国際連合平和維持活動 (1988) - ダライ・ラマ14世 (1989) - ミハイル・ゴルバチョフ (1990) - アウンサンスーチー (1991) - リゴベルタ・メンチュウ (1992) - ネルソン・マンデラ / フレデリック・ウィレム・デクラーク (1993) - ヤーセル・アラファート / シモン・ペレス / イツハク・ラビン (1994) - パグウォッシュ会議 / ジョセフ・ロートブラット (1995) - カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ / ジョゼ・ラモス=ホルタ (1996) - 地雷禁止国際キャンペーン / ジョディ・ウィリアムズ (1997) - ジョン・ヒューム / デヴィッド・トリンブル (1998) - 国境なき医師団 (1999) - 金大中 (2000) |