カロリング帝国

カロリング帝国
Karolingerreich
メロヴィング朝 800年 - 887年[注釈 1] 東フランク王国
西フランク王国
中部フランク王国
ローマ帝国の位置
カロリング帝国の領土
公用語 古フランク語
古高ドイツ語
古フリジア語
ラテン語
古フランス語
首都 メッツ
アーヘン
皇帝
800年 - 814年 カール1世
816年 - 840年ルートヴィヒ1世
823年 - 855年ロタール1世
850年 - 875年ルートヴィヒ2世
875年 - 877年カール2世
881年 - 888年カール3世
891年 - 894年グイード
892年 - 898年ランベルト
896年 - 899年アルヌルフ
901年 - 905年ルートヴィヒ3世
変遷
カールの戴冠 800年
ヴェルダン条約843年
メルセン条約870年
カール3世崩御887年
現在フランスの旗 フランス
ドイツの旗 ドイツ
 オーストリア
イタリアの旗 イタリア
スペインの旗 スペイン
オランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
スイスの旗 スイス
アンドラの旗 アンドラ
スロベニアの旗 スロベニア
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近代
フランス革命 1789
立憲王政 1791–1792
第一共和政 1792–1804
 • 国民公会 1792–1795
 • 総裁政府 1795–1799
 • 統領政府 1799–1804
第一帝政 1804–1814/1815
 • 百日天下 1815
復古王政 1814–1830
七月革命 1830
七月王政 1830–1848
二月革命 1848
第二共和政 1848–1852
第二帝政 1852–1870
第三共和政 1870–1940
パリ・コミューン 1871
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古代
エトルリア 8C-1C BC
マグナ・グラエキア 8C-7C BC
王政ローマ 753 BC-509 BC
共和政ローマ 509 BC-27 BC
ローマ帝国 27 BC-(395 AD)
西ローマ帝国 395-476/480
中世
東ゴート王国 497-553
東ローマ帝国 6C-8C
ランゴバルド王国 568-774
教皇領 752-1870
イタリア王国 774-1797
中部フランク王国 843-855
イスラムによる征服(英語版) 827-1300
ノルマン人による征服 11C-12C
教皇派と皇帝派 12C-13C
近世
イタリア・ルネサンス 14C-16C
イタリア戦争 1494-1559
外国による支配(英語版) 1559–1814
近代
イタリア統一運動 1815-1861
イタリア王国 1861-1946
イタリア戦線 (第一次世界大戦) 1915-1918
ファシスト党 1921-1943
植民地帝国 1936-1941
イタリア社会共和国 1943-1945
現代
イタリア共和国 1946-現代
鉛の時代 1970s-1980s

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中世盛期
フランドル併合戦争(英語版) 1297-1305
ブルゴーニュ領ネーデルラント 1384-1482
*リエージュ戦争(英語版) 1465-1468
ハプスブルク領ネーデルラント 1482-1556
近世
北方ルネサンス 15C-16C
スペイン領ネーデルラント 1556-1714
*ネーデルラント17州 1549-81
*オランダの反乱(英語版) 1568-1648
オーストリア領ネーデルラント 1714-93
*ブラバント革命 1789-90
*リエージュ革命(英語版) 1789-91
フランスによる統治(英語版) 1793-1815
近代
オランダによる統治 1815-1830
ベルギー独立革命 1830-1831
レオポルド1世 1831-65
*ロンドン条約 1839
レオポルド2世 1865-1909
*第一次学校戦争(英語版) 1879-84
*コンゴ自由国 1885-1908
現代
ベルギー領コンゴ 1908-1960
アルベール1世 1909-1934
第一次世界大戦 1914-18
*ドイツ帝国による侵略(英語版) 1914
*残虐行為(英語版) 1914
*ドイツ帝国のベルギー占領(英語版) 1914-18
ルアンダ=ウルンディ 1922-62
レオポルド3世 1934-51
第二次世界大戦 1940-45
*ベルギーの戦い 1940
*ナチス・ドイツのベルギー占領(英語版) 1940-44
*ユダヤ人迫害(英語版) 1941-44
*ベルギーの解放 1944-45
国王問題 1944-50
ボードゥアン1世 1951-93
アルベール2世 1993-2013
フィリップ 2013-現代

ベルギー ポータル

カロリング帝国(カロリングていこく、ドイツ語: Karolingerreichフランス語: Empire carolingien英語: Carolingian Empire)は、中世前期西ヨーロッパ中央ヨーロッパの広大な範囲に存在した帝国を指す史学上の用語であり、カールの戴冠により復活した「ローマ帝国」(西ローマ帝国)である。概ねカロリング家の勢力が拡大した8世紀後半からオットー1世の戴冠までの時代として用いられる。ただし、その指し示す範囲は明確には定まっておらず、始点としてピピン3世の即位[1]や、終点としてベレンガーリオ1世の死去[2][3][4]924年)などが用いられる場合もあるが、本文の基本情報では「一般的な神聖ローマ帝国の始まり」つまり、オットーの戴冠を終点とする。

概要

カロリング家のピピン3世は、751年にメロヴィング家のキルデリク3世を廃してフランク王位に登った。またピピンの子カールは、774年にイタリア半島を征服してイタリア王(ランゴバルド王)位も獲得し、800年にはローマにおいて教皇レオ3世によりローマ皇帝としても戴冠された。その後カールの息子ルートヴィヒ1世が840年に死去すると内乱が勃発し、843年のヴェルダン条約によって、カール大帝以来の版図は中部フランク王国東フランク王国西フランク王国の3つに分裂した。帝位は中部フランク王が継承したものの、その権威は東西の兄弟国まで及ばなかった。とはいえ、名目上の全「帝国」領の統一性は認知され続けた。

884年、カロリング帝国はカール3世の元で再統一された。しかし彼が888年に死去すると帝国は分裂され、それ以降かつての姿を取り戻すことはなかった。しかもその後継諸国のほとんどでは地元の貴族が王に擁立され、唯一東フランク王国がカロリング家の血統を911年まで継続して保った。なお、西フランク王国では893年にカロリング朝が復活し、987年まで続いた。

その支配の及んだ領域は1,112,000平方キロメートル (429,000 sq mi)と推定され、人口は1000万人から2000万人に及んだとされる[5]。 南辺ではイベリア半島コルドバ首長国、824年からはパンプローナ王国とも接し、北東ではデンマーク、西ではブルターニュと接していた。そして東方のスラヴ人アヴァール人に対しては、これを征服することで国境線を東進させていった。また、カロリング帝国はイタリア全土(教皇領を除く)の領有を主張し、東ローマ帝国ランゴバルド王国系のベネヴェント公国と対立した。

名称

「カロリング帝国」(Carolingian Empire)という語は現代において用いられる慣称であり、当時この名が使われていたわけではない。帝国の公用語だったラテン語では、普遍王国(universum regnum、「地域王国」の対義語)、ローマ人とフランク人の帝国 (Romanorum sive Francorum imperium)、ローマ帝国 (Romanum imperium) 、キリスト教帝国 (imperium christianum) など様々な呼称が見られた[6]

歴史

カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)

カロリング家の祖であるカール・マルテルは、フランク王でこそなかったものの、王国の宮宰として事実上ピレネー山脈以北の西ヨーロッパにおける絶対的な権力を有していた。彼の時点で後のカロリング帝国の版図の大部分はすでに形成されており、彼の死後にフランク王国の版図に加えられたのはザクセンロンバルディアスペイン辺境領くらいのものである。

またカール・マルテルは、カロリング帝国と中世ヨーロッパの重要な特徴である封建制と実力主義体制の原型を構築した人物でもある。これらは彼の息子、孫の代でさらなる改良を加えられていく。さらに彼は、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力のキリスト教ヨーロッパ世界への侵入を阻止したという点でも重要な人物である。それまでは、ベルベル人軽騎兵アラブ人重騎兵が融合したサラセン軍はおよそ不敗であり、イベリア半島を征服した勢いのまま西ヨーロッパを席巻するかのように思われていた。それはキリスト教世界にまだが伝来しておらず、騎兵力で圧倒的に不利だったためでもある。トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利で、カールはマルテル(鎚)の称号を得た[7]。歴史家のエドワード・ギボンは著書『ローマ帝国衰亡史』の中でカール・マルテルを中世最高のプリンスと称えた。

カール・マルテルの息子ピピン3世は、ローマ教皇ザカリアスの承認のもとで、もはや名ばかりの存在だったメロヴィング朝の王を廃位し自らフランク王に即位した。彼が死去し、その息子カール1世(大帝)の治世が始まったのは768年のことである。当初彼は弟のカールマンと共同統治していたが、771年にカールマンが死去してからは広大なフランク王国を単独で支配するようになった。800年、カール1世はローマ皇帝として戴冠した[8]

カール大帝の治世(768年 – 814年)

ドレスタット・ブローチ(800年ごろのカロリング時代の宝物)

カール大帝の時代、カロリング帝国は西ヨーロッパのほぼ全土を覆っていた。その領土はかつてのローマ帝国を思わせるが、ローマ帝国が9年のトイトブルク森の戦いでの惨敗以降ほとんどライン川以東へ進出しなかったのに対し、カール大帝はザクセン人など反抗するゲルマン人をうち破って国土をエルベ川まで広げ、その影響力は東ヨーロッパ平原まで及んだ。

カール大帝の治世の大半は彼自身が率いる遠征に費やされた。774年にランゴバルド王国を滅ぼし、778年にイベリア半島へ出兵したがこれは失敗した。788年にはバイエルンを征服した。795年には息子のピピンに対アヴァール遠征を命じ、804年には772年から続いたザクセン戦争を終結させ現在のドイツ北部まで領域を広げた[9]

カール大帝が死去する以前から、カロリング帝国は彼の数人の息子によって分割されることとなっていた。小カールはネウストリア王、ルートヴィヒ(1世)はアクィタニア王、ピピンはイタリア王となった。しかしピピンは810年に死去し、811年には小カールも嗣子なく没した。ピピンが死去した後にはカール大帝の側近アーダルハルトがイタリアを統治した[10]が、813年になるとピピンの庶子ベルナルドへイタリア王位が与えられた[11]。カール大帝の息子で唯一生き残ったルートヴィヒ1世は813年に共同皇帝となり、814年の冬にカール大帝が没すると全帝国をルートヴィヒ1世が継承した[12]

ルートヴィヒ敬虔帝の治世と内乱(814年 – 843年)

ルートヴィヒ1世は不安定な帝国の運営に苦しんだ。817年、ルートヴィヒ1世は息子の3人を新たな皇帝とした[11][10][13]。長男ロタール(1世)はイタリア王と共同皇帝、ピピン1世はアクィタニア王と副帝、ルートヴィヒ(2世)はバイエルン王と副帝の地位を得た。しかしルートヴィヒ1世は既に814年にベルナルドへもイタリア王の称号を認めていたため、ベルナルドはロタールのイタリア王即位を不満として反乱を起こした。ベルナルドは捕らえられ、眼を抉られる刑を受け、その傷がもとで818年に牢死した[13]。これを後悔したルートヴィヒ1世は、822年にアティニーの宮殿で教皇パスカリス1世らを前に懺悔を行った。この出来事は貴族たちに対する皇帝の権威を自ら著しく損なうものだった。

823年に後妻ユーディトとの間にカール(シャルル、2世)が生まれると、ルートヴィヒ1世は前妻との息子たちの領土を削りシャルルに与えようとしたため、ロタールらは反発し内乱が勃発した。830年、ロタール1世はピピン1世やルートヴィヒ2世とともに父ルートヴィヒ1世を攻撃して廃位したが、翌年に彼の強大化を恐れた弟たちがルートヴィヒ1世の側につき、ロタール1世は敗れた。しかしその翌832年、ピピン1世とルートヴィヒ2世は再び父帝と対立して反乱を起こし、833年にはロタール1世もこれに加わり父帝を再廃位し、シャルル2世とともに投獄した。835年、カロリング家内で和平が結ばれ、ルートヴィヒ1世は帝位を取り戻した。838年、ピピン1世が死去した。ルートヴィヒ1世はシャルル2世をアクィタニア王としたが、アクィタニア貴族はピピン1世の子ピピン2世を擁立した。このシャルル2世とピピン2世の対立は、864年のピトル勅令まで続いた。

ヴェルダン条約での分割線(843年)

最終的に、ロタール1世とピピン2世の連合に対するルートヴィヒ2世とシャルル2世の連合という構図となり、両陣営は841年のフォントノワの戦いで激突した。敗れたロタール1世は首都のアーヘンに逃れ兵を集めたが、弟たちの連合軍に敵うものではなかった。842年のストラスブールの誓いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世が皇帝に不適格であると宣言した。ここにルートヴィヒ2世の東フランク王国とシャルル2世の西フランク王国の、カロリング帝国からの分裂が決定的となった。後のヴェルダン条約と合わせて、この古高ドイツ語ロマンス語で書かれ宣言されたストラスブールの誓いはドイツフランスの原点として歴史上の重要な岐路であったと評価されている[14]。843年、ルートヴィヒ1世の3人の息子達はヴェルダン条約を結び、抗争に一旦の終止符を打った[15]

帝国の分裂(843年 – 877年)

843年のヴェルダン条約で、ロタール1世は皇帝位、イタリア王位、ライン川ローヌ川間の領土を継承した。この国は中部フランク王国と呼ばれる。ルートヴィヒ2世はライン川以東とイタリア北部・東部のすべての王権と領土を獲得し(東フランク王国)、シャルル2世はローヌ川以西(西フランク王国)を得た。

ロタール1世は844年に長男ロドヴィコ2世にイタリア王位を譲り、さらに850年に彼を共同皇帝とした。855年にロタール1世が死去すると、その国土はまた三分割された。イタリアは従来通りロドヴィコ2世が支配し、かつてのブルグント王国と被る領域とプロヴァンス王位を三男シャルルが、残りの地域を次男ロタール2世が継承した。ロタール2世の領域はそれまで特に名が付いたものではなかったが、これ以降彼の名をとってロタリンギアロートリンゲン、ロレーヌ)と呼ばれるようになる。

ロドヴィコ2世は父の死に際して新領土を得られなかったのが不満だったため、858年に叔父の東フランク王ルートヴィヒ2世や西フランク王シャルル2世と同盟した。ロタール2世はすぐに兄や叔父たちと和解したが、臣下から不人気で抵抗するために兵をあげることすらできなかったシャルルは逃亡した。自分に戴冠させるよう迫るルートヴィヒ2世に聖職者たちが屈しなかったため辛うじてシャルルの地位は保たれた。860年、西フランク王シャルル2世がプロヴァンス王シャルルを攻めたが、これは撃退された。その後シャルルは863年に死去し、その領土はロドヴィコ2世とロタール2世に分割された。ロドヴィコ2世はアルルエクスアンブランの各司教区とプロヴァンス王位を獲得し、イタリア王国に併合した。一方ロタール2世は、862年に自らの離婚に助力してくれた兄ロドヴィコ2世に領土を割譲した。

869年にロタール2世が嗣子なく没すると、その遺領は870年のメルセン条約でルートヴィヒ2世とシャルル2世により分割された。また、同じく男子がいなかったロドヴィコ2世は次の皇帝にルートヴィヒ2世の長男カールマンを指名していたが875年にロドヴィコ2世が死去すると、教皇ヨハネス8世の支持を得た西フランク王シャルル2世がイタリア王位と皇帝位を獲得した。翌876年にルートヴィヒ2世が死去し、シャルル2世は東フランクをも併呑しようとしたが、アンダーナッハの戦いでルートヴィヒ2世の息子たちに敗れた。東フランクはカールマン、ルートヴィヒ3世、カール3世の三兄弟で分割された。

混乱と最後の統一(877年 – 888年)

ルイ3世のヴァイキングに対する勝利を讃えた詩『ルートヴィヒスリート』の写本

877年にシャルル2世がモン・スニ峠を越える途中に死去した後、帝国は北方や西方からのヴァイキングの侵入や国内での内紛により混乱を深めていった。息子のルイ2世は西フランク王位を継承したが、病弱で皇帝位を受け継ぐことなく2年後に死去した。王国は2人の息子によって分割され、ルイ3世がネウストリアとフランキア、カルロマン2世がアクィタニアブルグンディアを継承した。西フランク王に従っていたプロヴァンスボソは2人に忠誠を誓うのを拒否し、キスユラブルグント王国を建て独立した。イタリア王位はルートヴィヒ2世の息子のバイエルン王カールマンが継いだが、2年後の879年にイタリア王位を弟カール3世に、バイエルンをルートヴィヒ3世に譲った。

881年、カール3世は皇帝に即位し、翌年に死去したルートヴィヒ3世とルイ3世の領土を併合した。一方アクィタニア・ブルグンディア王カルロマン2世はボソからキスユラブルグントの大半を奪還しつつあったが、884年に狩猟中の事故で死去し、その領土もカール3世が併合した。ここに、カール大帝以来のカロリング帝国はカール3世の元で再統一された。

癲癇を患っていたカール3世はヴァイキングから帝国を守ることができず、886年にパリからの撤退税を支払う屈辱的な講和を結び、無能をさらけ出した。翌887年にバイエルン公カールマンの庶子アルヌルフが反乱を起こすと、カール3世は戦わずにナイディンゲンに逃れ、退位した後888年に死去した。ここにカロリング家による帝位継承は一旦途絶え、カール大帝以来の版図は以降永久に分割されることとなった。

887年から888年の帝国分割

オランダの歴史
古代
ローマ帝国 58-476
民族大移動時代
中世
フランク王国 481-950
神聖ローマ帝国 962-1648
  ブルゴーニュ公爵領 1384-1482
  ネーデルラント17州 1477-1556
  オーストリア領 1482-1581
ネーデルラント連邦共和国 1581-1795
近代
バタヴィア共和国 1795-1806
ホラント王国 1806-1810
フランス第一帝政 1810-1815
ネーデルラント連合王国 1815-1830
現代
ネーデルラント王国 1830-現在

カロリング帝国は数多くの王国に分裂し、その多くで非カロリング家の王が立った。アルヌルフはケルンテン、バイエルン、ロレーヌ、その他現代のドイツにあたる領域を継承した。西フランクではロベール家のパリ伯ウードが王に選出された。アクィタニア王にラヌルフ家のラヌルフ2世が、イタリア王ウンルオッホ家フリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世、ユーラブルグント王ヴェルフ家のルドルフ1世、プロヴァンス王ボゾン家のルイ3世が就いた。ロタリンギアの残りの地域はブルグント公国を形成した[16]

人口

800年ごろのカロリング帝国内の主要都市の人口は以下のとおりである[17][18][19]

カロリング帝国出身の皇帝の一覧

ここでは、教皇によって聖別されたカロリング朝のローマ皇帝のみを挙げる。その他のフランク王についてはフランク王の一覧、後の皇帝についてはフランク・ローマ皇帝および神聖ローマ皇帝一覧を参照されたい。

肖像画(後世の想像) 名前 聖別 死去 当時の硬貨
カール1世 
(カール大帝)
800年12月25日 814年1月28日
ルートヴィヒ1世 
(ルートヴィヒ敬虔帝)
813年9月11日(共同皇帝)[20]
816年10月5日
840年6月20日
ロタール1世 823年4月5日 855年9月29日
ルートヴィヒ2世
(ロドヴィコ2世)
850年復活祭
872年5月18日
875年8月12日
カール2世 
(シャルル2世、禿頭のシャルル)
875年12月29日 877年10月6日
カール3世 
(カール肥満王)
881年2月12日 888年1月13日

脚注

出典

  1. ^ Laurent Theis, Histoire du Moyen Âge français, Perrin, 1992 ISBN 978-2262007188
  2. ^ Anthony Pagden, Worlds at War: The 2,500 - Year Struggle Between East and West, Oxford University Press, 2008 ISBN 978-0-19-923743-2
  3. ^ John M. Jeep, Medieval Germany: An Encyclopedia, Routledge, 2001 ISBN 0-8240-7644-3
  4. ^ Dennis J. Dunn, A history of Orthodox, Islamic, and Western Christian political values, Palgrave Macmillan, 2016 ISBN 978-3-319-32566-8
  5. ^ Post-Roman towns, trade and settlement in Europe and Byzantium – Joachim Henning – Google Břger. Books.google.dk. https://books.google.dk/books?id=ZK3bdq6ihM8C&pg=PA50&dq=carolingian+empire+in+km2&hl=da&sa=X&ei=M8-aVNjZBNfdoATPn4G4BA&ved=0CCAQ6AEwAA#v=onepage&q=carolingian%20empire%20in%20km2&f=false 2014年12月24日閲覧. "The size of the Carolingian empire can be roughly estimated at 1,112,000 km²" 
  6. ^ Ildar H. Garipzanov, The Symbolic Language of Authority in the Carolingian World (c.751–877) (Leiden: Brill, 2008).
  7. ^ Magill, Frank (1998). Dictionary of World Biography: The Middle Ages, Volume 2. Routledge. pp. 228, 243. ISBN 9781579580414 
  8. ^ Rosamond McKitterick, Charlemagne: The Formation of a European Identity, Cambridge University Press, 2008 ISBN 978-0-521-88672-7
  9. ^ Davis, Jennifer (2015). Charlemagne's Practice of Empire. Cambridge University Press. pp. 25. ISBN 9781316368596 
  10. ^ a b 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001年
  11. ^ a b 成瀬治 他 編『世界歴史大系 ドイツ史 1』山川出版社、1997年
  12. ^ Joanna Story, Charlemagne: Empire and Society, Manchester University Press, 2005 ISBN 978-0-7190-7089-1
  13. ^ a b 瀬原義生『ドイツ中世前期の歴史像』文理閣、2012年
  14. ^ “Die Geburt Zweier Staaten – Die Straßburger Eide vom 14. February 842 | Wir Europäer | DW.DE | 21.07.2009”. Dw-world.de (2009年7月21日). 2013年3月26日閲覧。
  15. ^ Eric Joseph Goldberg, Struggle for Empire: Kingship and Conflict Under Louis the German, 817–876, Cornell University Press, 2006 ISBN 978-0-8014-3890-5
  16. ^ Simon MacLean, Kingship and Politics in the Late Ninth Century: Charles the Fat and the End of the Carolingian Empire, Cambridge University Press, 2003 ISBN 978-0-521-81945-9
  17. ^ Bachrach, B. (2013). Charlemagne's Early Campaigns (768–777): A Diplomatic and Military Analysis. Brill. p. 67. ISBN 9789004244771. https://books.google.com/books?id=iRszAQAAQBAJ 2014年10月6日閲覧。 
  18. ^ Dudley, L. (2008). Information Revolutions in the History of the West. Edward Elgar. p. 26. ISBN 9781848442801. https://books.google.com/books?id=jLnPi5aYoJUC 2014年10月6日閲覧。 
  19. ^ Claus, Edda (1997年6月). “The Rebirth of a Communications Network: Europe at the Time of the Carolingians (thesis)”. papyrus.bib.umontreal.ca. 2014年10月6日閲覧。
  20. ^ Egon Boshof: Ludwig der Fromme. Darmstadt 1996, p. 89

注釈

  1. ^ カール3世崩御

関連項目

  • カロリング朝ルネサンス
    • カロリング朝建築(英語版)
    • カロリング朝美術(英語版)
  • カロリング時代の修道院の一覧(英語版)

外部リンク

  • The Making of Charlemagne's Europe (768–814) (freely available database of prosopographical and socio-economic data from Carolingian legal documents, produced and maintained by King's College London)
中世前期

民族移動時代 · 西ローマ帝国の衰退 · 古代末期 · ヘレニズム宗教の衰退 · キリスト教化 · イスラム教の拡大 · 第一次ブルガリア帝国 · フランク王国 · クロアチア王国 · アングロ・サクソンイングランド · バイキング時代 · カロリング帝国 · 古代教会スラヴ語 · キエフ大公国 · 東ローマ帝国の興隆

中世盛期
中世後期
文化

建築 · 美術 · 教会と国家 · 料理 · 人口統計学 · 文学 · 医学 · 音楽 · 哲学 · 詩 · 科学 · 技術 · 戦争 · カロリング朝ルネサンス · 12世紀ルネサンス · ルネサンス

関連項目

暗黒時代 · 都市  · 中世時代精神 · 中世の再現 · 中世研究 · 新中世趣味 · 年表