エディー・ハーメル

エディー・ハーメル
前列左がハーメル
名前
ラテン文字 Eddy Hamel
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1902-10-21) 1902年10月21日
出身地 ニューヨーク
没年月日 (1943-04-30) 1943年4月30日(40歳没)
選手情報
ポジション FW (RWG)
利き足 右足
ユース
1917[1]-1920 オランダの旗 AFC
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1920-1922 オランダの旗 AFC
1922-1930 オランダの旗 アヤックス 125 (8)
監督歴
1932-1933 オランダの旗 アルクマリア・ヴィクトリス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

エディー・ハーメルEddy Hamel1902年10月21日 - 1943年4月30日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の元サッカー選手。ポジションはFW。1943年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所にてナチスによって殺された。

背景

ユダヤ人オランダからの移民である両親の元、ニューヨーク州ニューヨーク市で出生[2]。10代の頃にオランダのアムステルダムに引っ越す。

1928年にヨハンナ・ウィンバーグと結婚し、1938年に双子の男の子ポールとロバートが生まれた[3]

サッカー選手としてのキャリア

1922年から1930年までアヤックス・アムステルダムに在籍していた[2]。アヤックスでは主に右WGの位置でレギュラーポジションを獲得し、在籍8年でリーグ戦125試合8得点を記録した[2]。当時、アヤックスサポーターからはヨーデン(オランダ語でユダヤ人という意味)というニックネームで呼ばれていた[4]。また、1920年代には彼専用のファンクラブができるほどサポーター間では人気があった[5]

ナチスによる逮捕と殺害

1940年5月にナチス・ドイツがオランダに侵攻すると、地元のファシストグループはユダヤ人を探しだし差し出す活動を始めた[2]

1942年、ハーメルはナチスによりユダヤ人ということで逮捕され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所送りにされた[2][6]。そして強制収容所で4か月強制労働させられた[2][6]

ナチスの検査で口内膿瘍の腫れが発見されたため、1943年4月30日、ガス室に連行され殺害された。享年40歳[2][7][8]

ハーメルはアヤックスでプレーした選手では唯一となる第二次世界大戦の犠牲者である。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “Op de ledenlijst bijgeschreven: AFC.”. Het Sportblad. 2018年5月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Agnes Grunwald-Spier (July 29, 2016). "The tragic fate of Jewish sporting heroes in the Holocaust", Jewish News.
  3. ^ Simon Kuper (2012). Ajax, the Dutch, the War: The Strange Tale of Soccer During Europe's Darkest Hour
  4. ^ [1]
  5. ^ David Winner (2012). Brilliant Orange: The Neurotic Genius of Dutch Football
  6. ^ a b Agnes Grunwald-Spier (2016). Who Betrayed the Jews?: The Realities of Nazi Persecution in the Holocaust
  7. ^ Gad Lerner. Tu sei un bastardo, (Feltrinelli Editore).
  8. ^ Sandro Modeo (2011). Il Barça: tutti i segreti della squadra più forte del mondo, (Isbn Edizioni).

外部リンク

  • The warm back of Eddy Hamel (article) at the Wayback Machine (archived February 17, 2004)