イーヴリン・ド・モーガン

イーヴリン・ド・モーガン
Evelyn De Morgan
本名 Evelyn Pickering
誕生日 (1855-08-30) 1855年8月30日
死没年 1919年5月2日(1919-05-02)(63歳)
死没地 ロンドン
国籍 イギリスの旗 イギリス
運動・動向 ラファエル前派
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イーヴリン・ド・モーガンEvelyn De Morgan, 1855年8月30日1919年5月2日)は、イギリスラファエル前派画家

経歴

旧姓はイーヴリン・ピカリングEvelyn Pickering)。両親ともに上位中流階級の出で、父パーシヴァル・ピカリングQC(勅選弁護士)はポンテフラクトの刑事法院臨時裁判官。母アンナ・マリア・ウィルヘルミナ・スペンサー・スタンホープは美術家ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープの姉妹で、ノーフォークのレスター伯トーマス・コークの子孫にあたる。

15歳の時、ホームスクーリングでスケッチのレッスンを受けはじめた。17歳の誕生日の朝、イーヴリンは日記にこう記している。「芸術は永遠、でも人生は短い……」。「今それを埋め合わせしよう。私には無駄な時間はない」。イーヴリンは美術学校に行かせてもらえるよう、両親を説得しだした。両親は最初それを拒んだが、1873年、ようやく許しを得て、イーヴリンはスレイド美術学校に入学することができた。叔父ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープも画家で、イーヴリンに多大な影響を与えた。イーヴリンは叔父の住んでいたフィレンツェをたびたび訪れたが、そこでルネサンスの巨匠たちを研究することもできた。ことにイーヴリンが愛したのはサンドロ・ボッティチェッリだった。その影響でイーヴリンはスレイド美術学校が好む古典的なテーマから離れ、彼女独自のスタイルを作ることになった。

1887年に、イーヴリンは陶芸家ウィリアム・ド・モーガン(William De Morgan)と結婚し、ロンドンで暮らした。1917年に夫が先立ち、その2年後の1919年5月2日、イーヴリンはロンドンで亡くなった。遺体はサリー州ウォキング近郊のブロックウッド墓地に葬られた。[1]

ギャラリー

  • 『夜と眠り』1878年
    『夜と眠り』1878年
  • 『アウロラの勝利』1877年–1878年
    『アウロラの勝利』1877年–1878年
  • 『海の乙女たち』1885年-1886年
    『海の乙女たち』1885年-1886年
  • 『機会の庭』1892年
    『機会の庭』1892年
  • 『執着』1897年
    『執着』1897年
  • 『悲嘆者たち』1910年-1916年
    『悲嘆者たち』1910年-1916年
  • 『カドモスとハルモニア』1877年
    『カドモスとハルモニア』1877年
  • 『ドライアド』1884年-1885年
    『ドライアド』1884年-1885年
  • 『メディア』1889年
    『メディア』1889年
  • 『エオス』1895年
    『エオス』1895年
  • 『闇の中の光』1895年
    『闇の中の光』1895年
  • 『ボレアスとオレイテュイア』1896年
    『ボレアスとオレイテュイア』1896年
  • 『カッサンドラ』1898年
    『カッサンドラ』1898年
  • 『トロイのヘレネ』1898年
    『トロイのヘレネ』1898年
  • 『恋の秘薬』1903年
    『恋の秘薬』1903年
  • 『砂時計』1905年
    『砂時計』1905年
  • 『SOS』1914年-1916年
    『SOS』1914年-1916年
  • 『霧の娘たち』1900年-1919年
    『霧の娘たち』1900年-1919年

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Smith, Elise (2002). Evelyn Pickering De Morgan and the Allegorical Body. Madison, NJ: Fairleigh Dickinson University Press. ISBN 9780838638835 

外部リンク

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