アンゼルム・フォイエルバッハ (画家)

曖昧さ回避 この項目では、画家について説明しています。刑法学者については「アンゼルム・フォイエルバッハ」をご覧ください。
アンゼルム・フォイエルバッハ Anselm Feuerbach
《自画像》(1873年)
誕生日 1829年9月12日
出生地 バイエルン王国の旗 バイエルン王国シュパイアー
死没年 (1880-01-04) 1880年1月4日(50歳没)
死没地 イタリア王国の旗 イタリア王国ヴェネツィア
運動・動向 新古典主義
出身校 デュッセルドルフ美術アカデミー
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アンゼルム・フォイエルバッハ: Anselm Feuerbach, 1829年9月12日 - 1880年1月4日)はドイツの画家。19世紀ドイツの絵画界で新古典主義の画家たちを牽引した。

生涯

初期

トマ・クチュール《アンゼルム・フォイエルバッハの肖像》(1852年)
フランチェスカパオロ(1864年頃)
《プラトンの饗宴》(1869年)
《ナンナ》(1861年)(ゲルマン国立博物館蔵)

フォイエルバッハは、考古学者ヨーゼフ・アンゼルム・フォイエルバッハ(ドイツ語版)の息子としてシュパイアーに生まれた。祖父は法律学者のアンゼルム・フォイエルバッハ。彼の生家は現在小さな博物館になっている[1]

1845年から1848年にかけて、デュッセルドルフ美術アカデミーに通い、ヨハン・ヴィルヘルム・シルマーフリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シャドーカール・フェルディナンド・ゾーンから教えを受けた。その後、ミュンヘン美術院に赴くが、1850年には他の不満を抱えた学生たちとともにアントウェルペン王立芸術学院に移り、フスタフ・ワッペルスの元で学んだ。1851年にはパリに移り、1854年までトマ・クチュールの教え子となった[2]。パリでは最初の傑作《酒場のハーフェズ》(1852年)を描いた[3]

1854年、バーデン大公フリードリヒ1世の支援によってヴェネツィアを訪れ[2]、色彩豊かな画家たちの本流に魅せられた。この時期のフォイエルバッハの作品からは、彼が熱心にイタリアの画家たちを研究していたことが見て取れる[3]。ヴェネツィアの後、フィレンツェ、そしてローマへと旅した。ローマには、ドイツへの束の間の帰郷を挟みながら、1873年まで留まった[2]。1861年、アンナ・リージ(: Anna Risi)(通称ナンナ)と知り合い、以後4年間絵のモデルとした[2]:270。1866年には、アンナに代わり、宿屋の妻だったルチア・ブルナッチ(: Lucia Brunacci)を第一のモデルとし、ルチアをモデルにメーデイアの絵を描いた[2]。1862年、アドルフ・フリードリヒ・フォン・シャック(ドイツ語版)伯爵と出会い、イタリアのオールド・マスターの模写を依頼された。シャック伯爵はフォイエルバッハをアルノルト・ベックリンハンス・フォン・マレースに引き合わせた。彼ら3人は、ドイツ芸術よりもイタリア芸術を好んだため、「ドイツのローマ人」(: Deutschrömer)として知られるようになった[2]

1869年から1874年にかけて、《プラトンの饗宴(フランス語版)》の2つのバージョンを描いた[4]

1873年、ウィーン美術アカデミー歴史画の教授職に任命され、ウィーンに移った[2]リングシュトラーセに建てられた新しいアカデミーの建物の大会堂に天井画《ティターンの没落》を描いたが、それを巡って建築家のテオフィル・ハンセン(ドイツ語版)と諍いを起こした。ウィーン滞在中には、ヨハネス・ブラームスと知り合った。ブラームスは後年フォイエルバッハの死を悼み、「哀悼歌」を作曲している。

晩年

イーピゲネイア I》(1862年)(ダルムシュタット・ヘッセン州立博物館(ドイツ語版)蔵)
フォイエルバッハの墓(ニュルンベルク)

1877年、アカデミーの職を辞して、ヴェネツィアに移住し、1880年にそこで没した[2]。遺体はニュルンベルクの聖ヨハニス墓地に埋葬された(同墓地にはアルブレヒト・デューラーらが埋葬されている)。ブラームスはその死を悼み、合唱と管弦楽からなる「哀悼歌」を作曲した。

常にフォイエルバッハに寄り添い、その経歴に多大な貢献をした継母ヘンリエッテ・フォイエルバッハ(ドイツ語版)は、フォイエルバッハの死後、彼との書簡や自叙伝風の手記を含んだ『遺産(: Ein Vermächtnis』と題する本を著した。この本は、フォイエルバッハの死後の評価を大いに高めた[5]。ブラームスは「哀悼歌」を彼女に献呈している。

フォイエルバッハは古典の知識に精通し、彼の描く人体は彫刻のような厳粛さとギリシャ芸術の素朴さを併せ持っている。技術を軽視するのは危ういことであり、どんな高尚な構想でもそれを表現するには熟練した職人技が必要であって、ひどい色で描かれた戯画は決して至高の芸術には到達し得ないのだということを、誰よりもよく知っていた。 — ブリタニカ百科事典(1911年版)[3]


フォイエルバッハの作品はドイツの主要な公立美術館に収蔵されている。《イーピゲネイア II》(シュトゥットガルト州立美術館)、《ラヴェンナダンテ》(カールスルーエ)、《メーデイア》(ミュンヘン)、晩年の大作《音楽会》(ベルリン)など。その他の主要作品に《アマゾネスの戦い》《ピエタ》《プラトンの饗宴》《オルフェウスとエウリディケ》《フェラーラ庭園のアリオスト》がある[3]

脚注

  1. ^ “Home - Feuerbachhaus Speyer”. feuerbachhaus.de. 2019年6月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h Artist biography in German Masters of the Nineteenth Century, p.268
  3. ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Feuerbach, Anselm" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  4. ^ J.G. Lesher. “Some Notable Afterimages of Plato’s Symposium”. Harvard University. 2019年6月11日閲覧。
  5. ^ Schiff, Gert, "An Epoch of longing" in German Masters of the Nineteenth Century, pp.24–7

参考文献

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、アンゼルム・フォイエルバッハ (画家)に関連するカテゴリがあります。
  • Links to works
  • German masters of the nineteenth century: paintings and drawings from the Federal Republic of Germany, a full text exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art, which contains material on Anselm Feuerbach (no. 25-28)
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